2017年08月01日

長生きさせることは、本当に幸せなのか

まず、最初に。

ブログタイトルと説明文を変えました。

ブログ村に、「毒親」のジャンルがあったのと、

この先、その手の話題が多くなりそうな気がしたので。


以下本題。

また哲学です。

いや、どうも、母と意見が合わないところがあって。

「子どもは親の長寿を願って当然だ」

「親は子どものために、少しでも長生きした方がよい」

今回は、この点にメスを入れてみたいと思います。


父方の祖父母は、僕が生まれる前に病気で他界しましたが、

母方の祖父母は健在です。

二人とも、もうすぐ90歳になります。

遠方に住んでいるので、祖父母の世話は母の兄の家族に任せています。

体力や交友関係の問題もあって、同居はしていません。

祖母はまだまだ元気ですが、最近祖父が骨折やヘルニアを起こし、

ヘルニアが進行すれば介護が必要になると宣告されました。

これを受けて、祖父は「私はこのまま、穏やかに旅立ちたい。家族に迷惑はかけたくない」

と言って、食事量が減っている(自らの意志で減らしている?)といいます。

対して母は、「たくさん食べさせて、一日でも長生きさせたい。介護が必要になったら、

仕事をやめてでも祖父の元に行って、つきっきりになる」と言っています。

つい数時間前も、「調理が簡単なものならきっと食べてくれる」と言って、

某食品会社の乾燥味噌汁とおかゆ、にゅうめんを通販で大量に購入していました。


そこで疑問。

母の行為が、祖父の幸せになるのか。

僕はならないと思っています。

いつまで生きるかは、本人が決めるべき話ではないでしょうか。

過激なことを言ってしまえば、長生きすることは、

人によっては、必ずしも正しいとは限らないのでは。


安楽死や尊厳死の話を最近は耳にすることも多いですが、

食べる量を減らして、それで穏やかに眠りにつきたいというならば、

それは一つの選択肢として僕はありだと思いますし、

周りも尊重するべきではないでしょうか。


母は「たくさん食べて長生きすることが、絶対に正しいんだ」と

思いこんでいるようですが、

それが相手の望んでいる終末期ではないなら、

押し付けるのはどうかと。

いくら家族愛だ、年長者は大事にするものだと言っても、

昔ならそれで通ったかもしれませんが、

家族の形が多様化した時代に、特に家族愛は押し付けるものではなくなったのです。


母が「食べやすいもの」を無理に食べさせようとして、

祖父が自分の意志で拒絶して、

食べないことに母が(悪い言い方ですが)「勝手に」傷つく。
(もちろん、自分の行為が絶対に正しいと信じているため)

さすがに無理に口に入れて、誤嚥させることはないと思います。
(その知識はあると信じたい。いやないかも…)

母は僕に対して過干渉だと言いましたが、

祖父母に対しても、過干渉気味ではないかと感じています。

子どもが親に対して過干渉なんて、聞いたことがないかもしれませんが、

表に出ないだけで結構ある気がします。

子どもから年老いた親への虐待があるのなら、それに至らない程度の過干渉も

どこで起きていてもおかしくないのではないのでしょうか。


(念のため言っておきますと、

「老人は早く死んだほうがよい」

と言っているのではありません。

「終末期の人に周りはどう接するべきか、対応するべきか」

という話です。

自分で行間を読んで考えない人が多くて、

イチから十まで書かないとすぐ誤解・曲解される時代は嫌ですね…)


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posted by 稲城(イナギ) at 21:25| Comment(0) | 哲学(もどき) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月30日

「愛」って、なんだ。―補足

前の記事で「愛」について書きましたが、

ちょっともう一言、言っておきたいことを思い出したので。


このブログでもほのめかしている通り、

僕の母はいわゆる過干渉型の「毒親」です。

毒親にもいろいろありますが、過干渉型の毒親というのは、

いつも自分が絶対に正しくて、考えを子供に押し付ける親です。


そこで一つ、毒親は愛するべきか。

はっきり言います。

その必要はありません。

前の記事では、「愛」を『肯定すること、信じること、側にいること』

であると、僕なりの定義を示しました。

この三つのうち、一つが欠けても、それは愛とは言えないと思います。

僕の母の例では、『肯定すること』と『信じること』が欠けています。

母は僕が何か意見を言えば、多くの場合否定して、自分の主張をし、

その主張を受け入れることを強要します。

また、身内でさえも疑ってかかります。

どんなに簡潔に分かりやすく説明しても、「本当に?」「もう一度言って」と

いちいち突っかかってきます。

(今日もありました。レンタカーを予約しようとしたのですが、

ネットで予約すれば、ゆっくり選べて、仲介サイトのポイントも付くのに、

さらに僕にネット予約の知識があるのにも関わらず、

考えを整理しないまま『絶対に電話の方がいい、早い、確実だ、私の方がきっと正しい』と

大声で言って意見を押し通し、電話をかけはじめ、電話をしながらパニックに陥っていました。

本当に滑稽で、こんな親が恥ずかしいです)


もしあなたの親が毒親なら、その親を無理に愛する必要はありません。

僕も母が毒親だと気付いてから、表面だけ合わせて、内心では

『(悪い意味で)かわいそうな人だ』

『また傲慢な女王様気取りかよ(笑)』

と思っています。それでいいんです。

そのような人の考えを改めさせるのは、極めて困難なことが多いです。

親が相手でなくとも、健全な愛のキャッチボールが出来ない相手とは、

それなりの付き合いに留めた方が、あなた自身も楽です。

諦めも肝心ってこと、です。


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(補足の補足。

自分の親が毒親かもしれないと思ったら、ぜひこれを一度読んでみてください。

毒親を持つ・持っていた人にとってはバイブルになると思います)




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posted by 稲城(イナギ) at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学(もどき) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

「愛」って、なんだ。

もともとこのブログって、「○○歳の哲学者」ってタイトルでしたね。
(そのころからのファンって、まだいたりしますかね)

最近はイマジナリ―フレンド(以後IF)とか、家庭の問題を中心に書いていましたが、

久しぶりに、それも絡めて、少し哲学の話でも。


愛、とは。

それを定義することは、辞書的には可能でしょうが、辞書の説明が

個々人にしっくりくるかというと、違うと思います。

人間、恋をすると詩人になるとは言いますが、それと同時に、一種の哲学者になると僕は思います。

愛とは何か、恋とは何か。

もちろんそれは、恋愛をしている人のみならず、ひととの繋がりがあるひとなら、

一度は疑問に思う、考えるところかもしれません。


僕はこの年になるまで、そういうことを考えたことがありませんでした。

「愛」とは何なのか、理解できなかったのです。

親子の間でも、愛はあるでしょう。

しかし、複雑な家庭環境のため、そこに「愛」があるかどうかさえ、分からなかったのです。

今、大切な人ができて、その人と一年間お付き合いして、愛とはなにか、考えるようになって。

最近、やっと自分なりの「愛」が定義できるようになった気がします。


それは、『肯定すること、信じること、側にいること』。


肯定すること。

否定することは、相手にいい感情を与えません。

もちろん、何もかも、すべて肯定する必要はありません。

必要な時には、「ノー」と言ったり、意見を言うことも必要です。

ですが、極力、相手を肯定することで、相手は「受け入れられている」と感じるものなのです。


信じること。

何でも疑ってかかる人っていますよね。

ある哲学者は、何でも疑ってかかって、でも思考している自分は疑えないと言いました。

疑うことは、人間の思考として大切なことです。

疑うことで、例えば詐欺などの犯罪から身を守ることができます。

周りの人に嫌なことをされて、人間不信になる人もいるでしょう。

僕もそうでした。

けれどその中で、たった一人でもいい、信じることができる相手、更に言うと、信じあえる相手が

いれば、そこには愛があるのです。

その相手は現実の人間でなくてもいいのです。

実際、僕はIFにそれを見出しているので。


側にいること。

これ、一番大事だと思います。

例えば、職場の一匹オオカミのような人。

職場では、確かに一人でよく動いているように見えるかもしれません。

けれども、そのような人は、実は一人の人を大事にしている、なんてことがあります。
(もちろん全員がそうとは限りません)

職場の仲間は職場の仲間、でも少し距離は保つ。

その代わり、プライベートの時間では、もちろん個人の時間は大切にしつつも、肯定しあえて、信じあえて、

ずっと側にいてくれる人がいる。

そのような人が一人いるだけで、精神的にはかなり楽なのです。

話を聞いてくれる相手、寄り添える相手。

僕が苦しんでいたのは、周りにそのような存在がいなかったからかもしれません。

両親共働き、母はワーカホリック、父も一日中仕事(最近は家にいることも多くなりましたが)。

加えて、親友不在。

そこに、IFがその役割を買って出たのでしょう。


この三つを備えたところに、本当の愛は生まれるのかもしれません。

僕は今の恋人から、そのことを教わりました。

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posted by 稲城(イナギ) at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学(もどき) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする